日大通信雑記

教員免許の取得のため、日本大学通信教育部(日大通信)の門を初めて叩いたのは2009年の春だった。それから4年ほど経った2013年の10月から、私は再び日大通信に学んだ。

本ブログでは、主に2013年からの学習の記録、思ったこと、感じたことを綴ります。けっこう自分勝手なことも書きますが、何とぞご容赦くださいませ。

気まぐれ雑記~通信を卒業するのに必要なのは学力か、精神力か?

日大通信教育部では、卒業者数は部報などでその都度発表しているが、それが卒業年次の学生の中の何%なのかという点は非公開になっている。しかし、ある卒業生が在籍者や年次卒業者等から割り出したところによると、ここ4、5年の推定卒業率は約12%ほどという。


もちろん学部間でも学科間でも差異はあるだろう。しかし、さらに16%ほどが卒業を必要としない教職課程等のみの履修者であることを考え、単純計算で学生84人あたり12人前後が卒業までたどり着くことになる。大半の学生が卒業していく通学制課程とは、この点では歴然とした差がある。通信制大学が苛酷な学生生活だと評される所以はここにあるだろう。


これについては、以前から様々に原因が推測されている。その中でも一番大きいとされるのは、社会人や主婦が多い故に、仕事や家庭、育児との兼ね合いがうまくいかないまま、勉学と疎遠になっていってしまうというもの。つまり、合間を縫ってでも勉学に勤しもうとする「精神力」は、確かにここでは重要な要素となる。


だが、本当にそれだけだろうか。もう一つの落とし穴は、大学での学問に対応するだけの基礎力の不足、ということが大きいのではないか。


それは何も英語や国語の知識が足らない、ということとは限らない。例えば大学の講義では、自身、あるいはグループ作業で研究発表の場が設けられることがあるが、発表で一番基本的なことは、自説を述べているのか、あるいは文献など他者の考えや説を引用したものなのかをはっきりさせることである。私は日大通信において英文学専攻と国文学専攻でのべ4年間学んだが、その点を理解しきれていない学生の比率は高かったように感じる。先生がそこを指摘する場面が多々見られたが、学生の反応はまちまちで、ふてくされる学生も少なくなかった。言われた本人にしてみれば、それこそ寝る間を惜しんで作り上げたレポートなり発表資料なのに、それをダメ出しされたのでは面白くないのだろう。確かにその気持ちはわからないでもない。しかしそれができなければ大学における学術研究の体をなさないわけで、例えば卒論の口頭試問などではダメ出しの嵐となるのが必至なのである。


これは精神力というより、「学力」にあてはまる要素ではないだろうか。リポート課題をみても、必然的にそうなっている科目も多い。


国文学専攻で言えば、国語音声学の分冊2、文章表現法の分冊2などはそのような形を取るものであり、これを何度書き直しても不合格で戻される人の多くは、書いた本人は自説を展開しているつもりでも、実は教科書に書いてある内容に合わせただけの補足的内容にしかなっていないことが多々ある。


参考にしたいからと言うので、私がリポートを貸し、さらに他者のものも借りて何度もリポートを書き直していたある学生は、結局のところ合格することなく年度を終えてしまった。他人のものを見たから悪いと言うのではない。不合格の理由を自身で理解し消化した上で、最終的に自分の考えを生み出すところにたどり着かなければ、それは論文として扱われないということなのだと思う。

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