日大通信雑記

教員免許の取得のため、日本大学通信教育部(日大通信)の門を初めて叩いたのは2009年の春だった。それから4年ほど経った2013年の10月から、私は再び日大通信に学んだ。

本ブログでは、主に2013年からの学習の記録、思ったこと、感じたことを綴ります。けっこう自分勝手なことも書きますが、何とぞご容赦くださいませ。

教員としての「自分」を作る

私がつねに思っていることだが、教員になるのに人間性がそれほど影響はしない。それは教育が特別なのではなく、どこの業界も同じではないだろうか。


もちろん、求める人材像として、「人間性」が掲げられていることは多いが、それもまた教員の世界に限った話でもない。つまり、建前として人間性という、形が分かりにくいオールマイティな言葉を書いておけば、とりあえず相手を黙らせることは可能。だから、雇う側はそういう言葉を使っているに過ぎないということだと思う。


でも、だからといってそれを真に受けて「人間性を磨こう!」などと語っているうちは、きっと教師になれない。


インターネット上や大学のサークルに、教採対策の集まりが無数に存在している。日大通信の中にも、オフィシャルなものからプライベートサークルまで様々にあるだろう。そのような場所に何度か顔を出したことがあるが、面接対策だ、討論対策だと雰囲気は賑やかなことが多い。だが、総じて言えるのは、話に「具体性」がないのである。


「授業中に生徒が暴れ出したら、どのように対応しますか?」という場面指導の質問に、「なぜそのようなことをするのか原因を探ります。発達障害や心に傷を負っていることも有り得ますし…」などと、堂々と答える人が現実にいたのには本当に驚いた。しかも、そのサークルのいわば主宰者の学生がこの答えである。授業をしている目の前でそんなことが起きたら、まずそれを鎮めるのが最優先という、実にシンプルなことに気づかない。気づかないというより、発達障害やらADHDやらの、いわゆる「心のケア」について勉強しすぎなのか、その場の対応という意味がわかっていないのか。


その子の背景にある問題を議論する場面ではないことがわからない、というのは教師としての資質以前の話のような気がする。


「教師として毅然とした態度で対応します。」という答えもいっしょだ。本人はきっと、ベストの答え且つコンパクトにまとめたつもりでいるだろう。だが、まったく答えになっていない。なぜ答えになっていないのか、もうおわかりだろう。


どんな場面も、つねに「具体的」であること。強いて言えば、これが教師の「人間力」とも言うべきだろうか。

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