日大通信雑記

教員免許の取得のため、日本大学通信教育部(日大通信)の門を初めて叩いたのは2009年の春だった。それから4年ほど経った2013年の10月から、私は再び日大通信に学んだ。

本ブログでは、主に2013年からの学習の記録、思ったこと、感じたことを綴ります。けっこう自分勝手なことも書きますが、何とぞご容赦くださいませ。

とある女性教諭の話

先日、前任校である某中学校の離任式、歓送迎会が行われた。たった1年しかいなかった期限付教員のために、そこまでやっていただけるのは大変ありがたい。代表生徒の手紙朗読や花束贈呈など、行事とはいえ嬉しいものである。


ただ、その後の歓送迎会。校内の互助会主催の飲み会だが、今年の幹事である音楽科某女性教諭の被害妄想ぶりは、最後の最後までいかんなく発揮された。


この曰く付きの女性教諭、仮にM先生としておくが、年度末の職員会議で、保護者からの苦情を名指しで公表されたばかり。


その中身を簡単に言うとこうだ。


①授業中に感情的になり泣き出す。

②自分の感じ方と違う意見は認めず、それを定期考査に出題。正解者が全クラス中一人しかいなかった。

③生徒を主観的な能力差で切り分け、能力が低いとみた生徒はとことんまで冷遇する。


私が直に見たわけではないので真偽のほどがどこまでなのかは不明だが、少なくとも保護者が子どもから聞いたであろう話を、メールで送信したもののコピーが配られ、年度末慰労の雰囲気が一転、重苦しい空気になったのを覚えている。


M先生も深く反省しておりますので…という校長のフォローもむなしく、それから約1ヶ月後のM先生、まったく変わっていなかった。


私は中学の時からギターを始め、教員に転職するまではずっとバンドをやっていたのだが、それがどうもY先生のプライドに触れていたらしい。


ただし、私はこの一年、ロック色は極力消し、M先生の昔話(つまり自慢話)にもまったくと言っていいほど耳を貸さず、終業後の職員室で自慢話が始まると、私は両耳の鼓膜をシャットアウトして、自分の仕事に集中するようにした。


文化祭の合唱コンクールが近づき、自分が副担任をつとめるクラスには多少のアドバイスはしたが、そもそも音楽の授業でやっているようなレベルでもなく、ただ気づいたことを少し伝えた程度である。


とにかく、ああいうプライドだけ高いおばちゃんには近寄らないのが賢明だと思っていた私の心の内を知ってか知らずか、M先生は何故だか私を挑発するような作文を書き、それを若手の女性教諭に代読させていじり倒すということを私にしてきた。


しかもほぼ全ての内容が、誇張と事実無根の嵐。音楽で自分に勝てる者はいない、その領域に入ってくる者は意図的、無意図的に関わらず徹底的に排除するのだ、と言わんばかりの文章が展開されていた。


1ヶ月前の反省…いや、反省どころかあの出来事によってさらに自尊心と虚栄心をふりかざすことに火がついてしまったのだろうか。


あんな内容を全職員の前で公表するというのは気の毒ではあったが、校長、副校長が個人的に呼んで指導すれば良いものを、わざわざそこまでしたということは、このような苦情が後を絶たず、腹に据えかねたということなのかもしれないが…。


いずれにせよこのM先生の一方的、自分勝手な妄想で書かれた作文が読み進められていき、してやったりのご満悦顔をしている。その間、私は腹が立つというよりM先生がだんだん不憫に思えてきた。


音大時代はおそらくフルート専攻、その道で生きていくことを目指していたが挫折し、教員の道を選んだM先生。齢50半ば、そろそろ還暦の声を聞こうかという今も、未婚の独身。決して若くない私でさえ、一回り以上離れている。その点を察すれば、寂しさこの上ないことは間違いないだろう。


しかし、M先生の最も大きな間違いは、教員の道を選んだことではなく、教員の道に徹してこなかったことだろうと思う。


例えば私がバンドをやるために学校にいるのではないのと同じように、M先生も音楽を教えるために学校にいるのであって、決して自分自身が音楽的な才能を発揮するためにそこにいるわけではない。


もちろん、音楽の経験を生かせる場面はある。だが、それをひけらかすようなことを子どもの前でやるのは、プロ野球選手が中学校球児の前でプロのプレーを見せ、どや顔するのと同じくらい痛い。しかも、育成枠から上がれずにクビになった選手が、さも一流選手のような顔をしてそれをやる、というおまけまで付くほどのレベルの話だ。


一体、なぜM先生はこんな教員になってしまったのだろうか。


次の記事で、その原因を考えてみたいと思う。

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