日大通信雑記

教員免許の取得のため、日本大学通信教育部(日大通信)の門を初めて叩いたのは2009年の春だった。それから4年ほど経った2013年の10月から、私は再び日大通信に学んだ。

本ブログでは、主に2013年からの学習の記録、思ったこと、感じたことを綴ります。けっこう自分勝手なことも書きますが、何とぞご容赦くださいませ。

2015年:自ら蹴った中学校教員への道その1

2015年春。

前年夏の試験で期限付の名簿登載となったものの、期限付だけになかなか電話が来ない。時はすでに新年度を迎えようとしていた。気持ちは焦り、とにかくどこでも良いから、声がかかったところに行こうという気持ちにだんだんとなってくる。期限付とはいえ、初めて手にした「名簿登載」という響きに、絶対手放してはいけないような錯覚を覚えていた。

私立の非常勤講師の仕事は、4月からどこかの都立学校で仕事があることを見越して契約更新をしなかった。そして4月。いっこうに声がかからないまま、新年度のスタートラインを越えてしまったある日のことだった。

夕方近く、ベッドに寝転がりスマホをいじっていると、おもむろに着信があった。

「◯◯区教育委員会●●課の△△です。」

来た!!

そこから先はあれよあれよという間に話が進み、区内の中学校での任用が決まった。とりあえず胸を撫で下ろしていたが、これこそが長い長いトンネルの入口になるとは、まさかこの時に知る由もなかった。

やっと受かったが・・・

いつの間にか2年以上もブランクを作ってしまったこのブログ。もともとは日大通信での単位取得と、教採とを絡めつつ書くのがコンセプトであったが、日大通信での単位取得を終えてからすでに6年。話題は大学での話から、ほぼ教採のみへと移行するべき段階にとっくに入っているはずだが、如何せん、なかなか試験に受からなかった。

そこでまずは、教員採用試験というものに挑戦を始めてからの結果を遡って書き出してみる。(私立はのぞく)

〈英語〉

2010年(11年採用)

名古屋1次×

川崎1次×

2011(12)

名古屋1次×

東京1次×

2012(13)

名古屋1次×

東京1次×

1次試験にすら全く歯が立たず。思い切って仕事を辞め、予備校に通い勉強に集中することに。

2013(14)

愛知1次×

東京1次◯  2次×

腰を据えて勉強した成果で、ようやく東京の1次を通過。論文のみの社会人特例選考であったことも大きかった。しかし、2次では惨敗、次年度から国語へ転向しようと考えるようになったのもこの時から。

〈国語〉

2014(15)

三重1次×

東京1次◯ 2次 期限付

正確に言えば期限付とは、不合格者の中から比較的「マシ」な者を選んで、必要に応じて配置するという東京都独自の制度である。

だが、この頃の私はそんなことまで考えるほど冷静にはなれず、半分合格した気分になってしまった。これが運命の分かれ道となった。

では次の記事で、このことについて掘り下げて書いてみたいと思う。

現場教員が生徒に学ぶ時

ずいぶんと間を空けてしまったが、私の現在の職場は某都立高校である。昨年はまたしても二次試験の壁に阻まれた。その時点で教員の道は諦めようと思っていたが、最後の思い出にするつもりで、ずっとやってみたかった都立高の臨採にダメ元で応募したら、そのまま採用されることとなった。昨年11月のことである。

これまで公立学校は中学校での勤務経験しかなく、高校はすべて私立を渡り歩いてきた自分にとって、公立高校は初の経験であったが、公立私立を問わず、重要なのは常勤か非常勤ということであろう。生徒との関わり方が全く異なるからである。もちろん、授業が最大の仕事であることに変わりはない。しかし、例えば部活動など、授業以外の関わりによって、授業に影響を及ぼすことも少なからずある。学生の本分は勉強、昔も今もそれは正論である。ただ、多くの生徒にとって、勉強と部活どちらが好きかと仮に聞いたとすれば、前者と答える者はかなりの少数派、というのが現実である。生徒各々にとって、しなければならないからすることと、自分の意志でしていること、この違いは大きい。

好きでしていることに教員が関わっていくことは、ある意味そこにいる生徒たちとも、少なからず共同作業をすることになる。授業で見せる顔以外の一面をお互いに見ることで、見方もまた変わる。一般企業と学校の違いは、このような所にも垣間見ることができる。

先日、吹奏楽部の生徒たちと関わる機会があった。私の担当は別の部活なのだが、授業を受け持っていた吹奏楽部員から、3月に行われる文化部の発表会に一緒に出てほしいと依頼されたのである。しかし、私はバンドを長年やっていたが、吹奏楽部で使うような管楽器の経験はまったくなく、なぜ自分が指名されたのかわからなかった。その理由は、弦楽器として唯一ベースのパートがあり、それを弾いてほしいということだった。

自分が個人的にやってきたことを、初めて学校の中で生かす時が思わぬ形でやってきたのである。

練習に取り組む生徒たちはひたむきである。それを見ていると、期待に応えたいと心底思った。生徒の懸命さと、私の懸命さ。この思いの融合が、新たな何かを生み出すこともある。また一つ、学んだ瞬間だった。