日大通信雑記

教員免許の取得のため、日本大学通信教育部(日大通信)の門を初めて叩いたのは2009年の春だった。それから4年ほど経った2013年の10月から、私は再び日大通信に学んだ。

本ブログでは、主に2013年からの学習の記録、思ったこと、感じたことを綴ります。けっこう自分勝手なことも書きますが、何とぞご容赦くださいませ。

通信にまつわる情報の真偽を見極める

日大通信に限らず、大学通信教育に関する情報は、まあまあ的を得たもの、それは言い過ぎではないかと思うものなど様々である。

以前にも書いたように、ほぼほぼ正しいと思えるのは卒業までの道のり。仕事や育児などをこなしながら勉学に励むとなれば、4年課程だからといって、4年で終えることはなかなか難しいだろう。まして卒論が必須となる場合は、早い段階から準備や調査が必要となったり、指導教員とのやりとりなど、その大変さは想像に難くない。

しかし中には、誰が言い出したのか、それは言い過ぎだろうと思えるような話もしばしば目にする。質問サイトなどで大げさに言っているだけならまだしも、一時はウェブ辞典等にまで書かれていたのには困ったものだと思った。

「科目修得試験に合格するのは相当な難関」

こんなことが、本当に書かれていたことがあった。こんなことは科目によりけりであり、科目や担当教員次第では、スクーリングより試験のほうが楽、ということだってないわけではない。私は幸い経験しなかったが、スクーリングに出ても落とされた、という人に実際に何人か会ったこともある。

そしてもうひとつ、これも質問サイトによく書かれている話だが、

「通信なんて誰でも入れるから行く意味ない」

「受験なしで大学に入ってるやつが、受験勉強頑張って入ったやつと肩を並べようなんて考えが甘い」

という類いの話である。

上の例に共通するのは、あくまで受験の時の偏差値にまつわることである。確かに、受験勉強において、高い偏差値を保って大学に合格した場合は、それだけ底力もあるということ。大学の学問にも比較的入っていきやすいといえる。通信の卒業率の低さには、入試が存在しないこともにも起因しているというのは私の見解でもあるということも、以前書いたことがある。

しかしながら、通信の場合は本当に人によりけりで、大学に入ってから、高校レベルの学力をつけるための勉強をする人もいるし、大学側もその点を見越して、そのような人向けの授業を開講している場合もある。

結果的にそれは、大学に入る前に勉強するか、入ってからするかの違いである。入ってから勉強を始める人は、スタートが遅れている分、時間もかかる。そこで諦めてしまう人もいれば、必死で食らいついて、人並み以上にまでなる人もいる。卒業までに時間を要するのは、このような理由もあるだろう。

私自身は、日大通信の英文学専攻は楽に感じた、ということは以前も書いた。しかし、それは優秀だったからではない。若かりし日の受験勉強、大学時代の下地があったからというだけである。

それでも私にとって難点だったのは、暗記することに極度の苦手意識があったこと。だから、リポートはそれほど苦労しなかったが、カモシューの中でも暗記中心のものはCを食らった科目が少しある。

国文学専攻在籍時は、それがさらに顕著に出た。漢文学Ⅱのカモシューに2度挑戦したが、結局受からず、漢文学Ⅰの積み重ねにしたこともここで書いた。

話を若干戻して、通信がネットで書かれるような評価の仕方をされるようになったのは、大まかに言って、少子化を叫ばれるようになってからと見ることもできる。

私が高校生だった頃は、それこそベビーブームの受験期。私大のランキング、今なお残る受験の偏差値グループ(MARCHやら日東駒専やら大東亜帝国やら)は、まさにこの時代に生まれたものだ。そもそも同じ偏差値帯にいる大学をひとまとめにして、受験時の合格基準として、分かりやすくするためのアイデアに過ぎなかったこれらのグループ分け。それがいつの間にかブランド的価値に変わり、今では、あたかもそれが大昔から存在するヒエラルキーのように言う者も少なくない。

確かに、ベビーブームの受験期には、そのような見方はあった。というより、その時代のほうが、今よりもそこの意識は強くあったのではいかと思えるところもある。例えば、最近ではめっきり少なくなった、学部の2部。いわゆる夜学である。一昔前は、早稲田、明治、中央など、関東の有名どころもたいてい夜学を設置していた。

夜学の本来の目的は、家庭の経済的事情により大学に進めなかった社会人が、仕事の終業後でも通学できるようにと門戸を開くことにあった。だが、ベビーブーム受験期の到来に伴う受験競争の激化と、勤労学生の減少で、次第に夜学の役割は変化した。つまり、勤労学生のための大学ではなく、昼間部(学部の1部)に合格できなかった受験生の、受け皿的存在に、その姿を変えたのである。

そして知名度の高い大学ほど、2部の入学者にも影響した。例えば、日東駒専の1部と、だいたい同じ程度のランクにあったMARCHの2部に合格したなら、より知名度の高い後者を選ぶという構図だ。ほとんどの大学で2部を廃止した現代では考えられないことかもしれないが、当時はこのような例がよくあった。

そして、通信の役割。2部のような通学制を基本としていないスタイルだけに、現在でも社会人の在籍率は高いが、それでも、同時の雰囲気としてあったのは、2部が1部に合格できなかった受験生の受け皿なら、通信は1部にも2部にも合格できなかった受験生の受け皿、という構図。以前登場した、同級生J君の話が典型例である。

あえて受験オタ風にまとめると、20年以上昔に確かに存在したのは、

早慶>早慶2部≧MARCH>MARCH2部≧日東駒専>大東亜帝国>日東駒専2部>通信

という、今よりももっと複雑なランキング構造。日東駒専というくくりでも、2部になると大東亜帝国より後ろになるというのも、実際にあった話だ。

現在は、少子化に伴って、これらの構造もずいぶんと変わった。昨年度あたりから本格化した合格者の絞り込みで、大学受験も新たな局面を迎えているが、それでも、昔と今では、受験勉強に使わなければならないパワーはずいぶん和らいでいる。昔は、有名無名に関わらず、勉強しなければ入れる大学がなかったのだから。

さて、そして「受験なしで大学に入ってるやつが、受験勉強頑張って入ったやつと肩を並べようなんて考えが甘い」

という発想。私に言わせれば、

「ちょっと勉強したぐらいで勝ち組になったつもりでいるなんて考えが甘すぎる」というところか。

すでに通信にも波及している?

インターネットでブログをいろいろ訪問していたら、昨年秋に日大通信の英文学専攻に入学し、つい先日退学願を提出したという方の記事を見つけた。理由は、例のアメフト事件と、その後の大学の対応に失望した、というものだった。

実際、日大では通信教育部に籍を置いている運動部員もわりといる。そのような立場の学生にとっては胸中複雑、ということは察するに難くない。しかし、運動部に関係のない、純粋に勉学に勤しみたいという気持ちで日大通信の門を叩いた学生の中からも、このような学生が出てきている。一連の騒動の余波が、ついに通信教育部にも波及してきたということだろう。

通学課程と違い、通信の授業料は年間10万円程度(スクーリング等の受講料を除く)と安く、これは他大学の通信制課程と比較しても相当な安さである。この安さが、逆に退学へのハードルを下げているという見方もできるだろう。

さらに、編入学を含めた新入学を考える人にとっても、もはや授業料の安さだけの問題ではなくなっているかもしれない。私のように母校は別にあり、教職課程など、資格のために単位を取っているだけの学生にとっては、実際のところそれほど気にする問題ではない。

しかし、すでに退学して久しい今の私ではなく、これから教職課程を取ろうと、各大学の資料を集めていた時にこのような問題が起きてきたら、果たしてどうだっただろうか。都内で生活しているのであれば、英語の教員免許が取れるのは、都内では日大しかない。それでもやはり、日大を選んだか、遠方だとしても他の大学を選んだだろうか。

仕事や育児をしながら教職課程を履修しようと考える人達の思いは、いかに。

スクーリング懐古その1~英文学専攻編

日大通信はスクーリングの種類が多く、私自身もスクーリングは何かと利用した。どのスクーリングにもそれぞれの思い出があるが、やはり、日大通信の中では最大のイベントと言って良いであろう夏期スクーリングが近づいてくると、当時の情景が色濃く蘇ってくる。

私が初めて出たスクーリングは2009年の夏期スクーリングだった。当時はまだ午前、午後で2科目に分かれており、休みが取りづらいと社会人学生には不評だった(2011年夏より、現行の時程に変わったようである。)

その年の秋には、初めて夜間スクーリングを受講。翌年の教育実習に行くために、必死で単位を取っていた時期である。この時の夜スクは週3コマ。後にも先にも、一期あたりの受講数としては最多のものだったが、おかげで友人だけでなく、先生と飲みに行くほどの濃い関係性もできた。

翌春の、教育実習直前のGW中に、春期東京スクーリングを受けた。この時に受講した英米文学概説をもって、英語科における教科に関する科目はすべて出そろった。(もっとも、出身大学でも英文科だったので、教科に関する科目で足りていないのは実質2科目だけだったのだが。)

その後、夏スク1科目受講を経て、最後に受けたのは同年秋の夜スク、教育カウンセリング論。これをもって、免許取得に必要な単位をすべて取り終えた。この頃になると、前年度はたくさんいた仲間たちもめっきり少なくなり、少し寂しさを覚えた記憶がある。

とにかく英語科の免許を取る人は多い。というのも、通信で英語科が取れるのは当時、全国でも3校のみ。さらに都内に限ると日大のみだったので、学生が集中する傾向が顕著だったのかもしれない。

その後、私自身も含め何らかの形で教員となった人は多いが、この頃が、ある意味教員としての理想を最も意識していた時期だったかもしれない。

英語なら他の学生に簡単には負けない、という気持ちもあったし、それだけの努力をしてきたという自負もあった。国語科への転向をはかる3年前のことであった。