教師が目を向けるのはどこか?
学校の教員とはいえ、一つの社会の中ではサラリーマンである。上司もいれば先輩も後輩もいる。だがしかし、忘れてはいけないのは、教師は誰のために仕事をするのかということである。以前の記事にも登場した、私の知り合いのY先生をはじめ、現場の教員の中にはここを見落としている先生が少なくない。
少し話がそれるが、私は常々、自分のことをメンタルが弱い人間だと思っている。これはネタでも何でもなく、事実である。だが、そのようなことを言うと、とてもそんな風には見えない、という反応が来る。確かに私の場合、教員間で恐れられるような先生にはほとんど動じない。いや、むしろそういう先生を適当にいじりながら、コミュニケーションを取るのは得意な方である。おそらく、そのあたりを見て、メンタルが弱いとは思えないと言うのだろう。
しかし、それは単なる表面的な部分、言うなれば、職員室で大人と顔を合わせている時の私である。例えば授業直前の数分間、私は極度に緊張状態になる。授業がきちんとできるだろうか、という不安から来るものだ。
教室に40人もの生徒がいる。彼ら一人一人に、分かった、理解できたという満足感を与えなければならないと思うと、過呼吸を起こしそうになる時もある。裏を返せば、自分の授業力というものにまだまだ自信がないということだと思う。
つまり、私は学校にいる間、目が向いているのは生徒が待つ教室であり、黒板を背に教壇に立ち、向かい合わせに座る生徒たちの方向である。同僚の先生がどんな人なのか、どんな性格なのかということなど、二の次にも出てこないほど他愛もない話だ。
ところが、同僚に対する文句や悪口の絶えない教員の多くは、授業への不安は少ないようで、中にはオヤジギャグのネタを必死に考えているような先生さえいる。この人たちにとって、授業はもはや完全に自分のスタイルを確立した世界にあるのか、あるいは諦めの境地に至り、ウケを狙うことにしか生徒の視線を集める手段がないのか。
私から見れば、内輪の文句を垂れる暇があったら、教材研究にでももっと精を出してろ、と思ってしまう。世の中に100%などあり得ないとよく言うように、教師にだって完璧なんてものはない。生徒が変われば、性格も傾向もすべて変わるのが当然である。どこへ行っても同じやり方が通用する訳ではない。大人の顔色ばかり気にする人ほど、生徒の顔色には気づかない。これが、教師という人種の特性なのだろうか。
自分は何のためにそこにいるのか。それをわかっていない、というより忘れている教師は多い。大人に嫌われるなんてどうでもいい。生徒のことだけ考えていれば教師は良いのだ。今のサラリーマン教師には、このくらいの思いきりがあってもいい。